タイムマシンがあったなら(2020.07.30 Thu.)

行ってみたい江戸の町。7月29日の讀賣新聞、その文化面に“疫病流行 江戸の緊急給付 迅速”“銭や米、5〜12日で”“積立金や町人自治組織の力”という興味深い見出し。経済史家の鈴木浩三さんが江戸の緊急給付について書いている。それによると江戸時代の日本はたびたび感染症に襲われたそうだ。天然痘や麻疹のほか、19世紀頃からはインフルエンザとみられる「風邪」の流行。感染症の大流行や災害時には、江戸に住む当時「其日稼」(そのひかせぎ)と呼ばれた行商人や日当で生活する職人などに対して、銭や米が緊急的に配られたとのこと。この給付は「御救」(おすくい)と呼ばれ、疫病に限っても頻繁に給付され、その給付は5日から12日で配り終えた、とある。人口100万と言われる大都会、江戸。武士をのぞく人口は60万人ほどで給付の対象はその半数。対象者がこれほどの数でありながら、短期間で配ることができたのは「安定した財源と、必要とする人々の情報を正確に把握できる仕組みがあった」こと。財源は「七分積金」* 給付や運用を担うのは「江戸町会所」。幕府の監督下ではあったが、武士でなく、有力商人である「勘定所御用達」10人や町人たちの代表「肝煎名主」6人が実質的に運営したそうだ。当時の江戸の「町」現代の市区町村よりも大きな権限を持つ自治組織だったらしい。そして日頃から町内住民のことをきめ細かく把握、だからいざというときにすばやく動くことができた。町の上部には武士である南北町奉行所、配下には330人の与力・同心がいたが、彼らだけではとても都市住民の暮らしを把握できないとコラムは教える。時代劇で生き生きと描かれるのが常の江戸の人たちですが、大いに実情に迫っているのかも。

ペリーの二度目の来航時(1854年)に幕府の交渉責任者となった大学頭、林複斎は「人命を第一に重んじることで日本は万国に勝っており、それゆえ300年近く太平が続いているのだ!」(『墨夷応接録』**)と啖呵を切ったとか。「武士たちの治世者としての自信は、実務能力と自治にたけた町人たちの実績によって裏付けられていたのである。」とコラムは締めくられている。

それぞれの立場で能力を発揮し、「社会」を運営していく。江戸にはまだまだたくさんの学ぶべきことがありそうです。しかしその江戸も終わりを告げた。よいところはそのままに緩やかにニッポンが変わっていくことは出来なかったのだろうか。「明治維新」とは何だったのか。もう一度きちんと学んでみたい。

*1791年設立。江戸の町人(地主)が毎年約2万5900両を拠出、幕府も基金として2万両を出資。今でいうところのファンドに相当、緊急的な給付「御救」に備えて備蓄。ふだんは地主向けの定理融資などで運用されていたとのこと

**林複斎による、江戸幕府とペリー艦隊との交渉について記された議事録