今回の旅のメインイベント、午後からは宇和文化会(西予市宇和町)にて「白隠フォーラム in 宇和島」(主催:花園大学国際禅学研究所)へ参加。今朝、八幡浜から宇和島へ向かう高速の反対車線(上り)が事故渋滞で長い長い列。片側1車線でこう言うことが起こるとどうにもならない。帰りが少し心配になりましたが、すでに解消されていて、途中から高速に入り、予定通りフォーラムの開場時間に到着。安堵。フォーラムでは「白隠禅師」を核に、四国に於ける臨済宗の歴史、吉田藩や大洲加藤家(法華津屋)とそこで起きた一揆などを踏まえた郷土史のお話しなど。それぞれのお話に登場する人物がさまざまに交差する。歴史の一旦を垣間見ることができ、非常に面白かった。以下個人的覚書。
「大乗寺と遼天宜頓〜四国における白隠禅の嚆矢〜」
河野徹山老大師(大乗寺専門道場)
1.南伊地方における臨済禅の伝播
2.四国における白隠禅の伝播
3.遼天宜頓の生涯(1727~1793)
4.むすび
以上の内容(レジメより抜粋/以下同)をよく通るお声でわかりやすくお話しされた。特に時間が割かれた「3.遼天宜頓の生涯」では白隠慧鶴に参禅し白隠の法嗣(白隠は42歳年上)となり38歳で大乗寺の住職となり67歳で遷化された遼天宜頓(りょうてんぎとん)について、関わりのある人々や事件などを関連づけてのご説明。昨日大乗寺も参詣し、吉田藩や法華津屋、そして法華津屋の高槻狸兄の関係などお話をお聞きしていたので、糸が絡まることなく理解ができた。
*補足:遼天宜頓の授業師(僧侶の修行における最初の師)は醍仙全威(だいせんぜんい/大乗寺六世、浩雲養法嗣)その後、白隠の法嗣である天倪慧謙(てんげいえげん)に初参し、後に白隠慧鶴に参禅
「愛媛に伝わる白隠禅画と近世郷土史(武左衛門一揆)」山田広志先生(大洲市教育委員会)
・参考資料「大洲加藤家と禅」
①龍護山天梁と中江藤樹
②如法寺盤珪と加藤泰興
③白隠と大洲藩加藤成章
山田広志先生のお話では、内ノ子騒動、武左衛門一揆の詳しい背景などもヴィジュアル資料を駆使してお聞かせいただいた。その中で一揆にルールがあったこと、が特に印象深い。「してはいけないこと」が厳格に決められていてそのルールの範疇で一揆が行われていた、ということ。これまで漠然とイメージしていたことが、がらがらと崩れ落ちていく。そういえばNHKの「べらぼう」でも打ち壊しのときに… と膝をうつ!
「白隠禅師と近世の吉田藩・大洲藩」
芳澤勝弘先生(国際禅学研究所顧問)
★白隠と伊予の関わり
★加藤泰衑(かとうやすみち)の時代
★参勤交代について白隠の批判
★百姓一揆を白隠はどう見ていたか
★吉田藩の豪商高月狸兄と白隠
★吉田藩の武左衛門一揆
白隠は、伊予は松山までしか来ていないが、大洲藩との関わりはあるようだ。白隠64歳の寛延元年(1748)5月17日、大洲加藤家第六代藩主の加藤泰衑(かとうやすみち)が、三島宿で朝鮮通信使の御馳走役を勤めた。御馳走役は復路も往路と同じ宿場で朝鮮通信使を接待しなければならないから、おおよそ1ヶ月半、江尻あるいは三島に滞在し、泰衑(21歳)および加藤内蔵助成章をはじめ臣下の者たちは、この時に白隠に会う機会があったと思われるとのこと。この日会場に数本の掛軸が飾られたのですが、その中でも一際目を引く巨幅「布袋吹御福」図(大洲市法華寺所蔵/大洲市立博物館寄託)は、このときの出会いが縁で泰衑に贈られたものらしい。(前述の内ノ子騒動は、この翌年、泰衑22歳のとき)大洲藩加藤家の家老、加藤内蔵助成章と白隠の間に書簡の往復があったり(68歳/1752、伊予吉田の豪商、法華津屋の3代目当主、高月英光(俳号狸号)が東海道原宿に滞在し、白隠(69歳/1753)に相見、江戸川深川の臨川寺で「碧眼録」の提唱を行なった際(75歳/1759)には、大洲藩家臣、加藤玄雄が参じるなど、吉田藩と大洲藩と白隠はさまざまな糸で繋がる関係が確認されているそうだ。吉田藩の武左衛門一揆は白隠が亡くなってから25年後。御用商人の法華津やが和紙生産を独占して暴利をむさぼったために、百姓たちが打ち壊そうと蜂起したそうだ。一揆は成功するが、首謀者の上大野村の百姓武左衛門は斬首になった。白隠が生きている時代であれば、この結末はなかったのかどうか。
最後はディスカッション。会場に掛けられたお軸のお話など。本日宿泊の大洲城下町へのバスの時間が決まっており途中退席かとどきどきしましたが、無事最後まで拝聴。研究者ではなくとも有意義に過ごせたのは、ご登壇の御三方のお力と、本日のコーディネーター、飯島孝良氏(国際禅学研究所副所長)のお力ゆえ。心より感謝申し上げます。

