昔学び(2026.07.26 Sun.)

“写真と本文はまったく関係ありません(笑)こちらも古く2019年に撮影された一枚”

調べ物をしていて昔の日記を探る。お目当ての情報ではないけれど、これは! という書き込みを発見。学んだ内容をほとんど忘れているという体たらく。よってこちらに転載。以下転載した内容はすべて2010年5月30日と7月16日時点の受講記録(茶の湯同好会/講師:竹内順一氏)による。覚え違い、知見が新しくなり正しくない可能性、もあるやもしれません。なにせ、16年も前のことゆえ。

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2010年5月30日(日)
今月から月に一度の講座開始。講師は宗湛日記に続いて竹内順一氏(永青文庫館長)。
清玩名物記(紹鴎のときの記録、414点)との比較をしながら、読み進んで行く。
なお、山上宗二記は212点、正月本と二月本があり、テキストとして使用されるのは
「岩谷寺宛本、表千家本、不審庵本」とも呼ばれる二月本。

●山上宗二プロフィール:お茶を教えることを仕事にした最初の人物
天文13年(1544)生まれ 天正18年(1590)数え47歳、
小田原にて没 堺の町衆 屋号は薩摩屋 号は瓢庵
利休に20余年学ぶ
父は山上宗壁 子息は伊勢屋道七(長男だが養子に)
古渓宗陳筆の諡号「瓊林」(瓊林とは「玉のように美しい」の意)

●『長闇堂記』奈良の神官出身の茶人、久保権大輔(1571-1640)著 
山上宗二評:
「……..かの山の上の宗二、さつまやとも云し、堺にての上手にて、
物をもしり、人におさ(押)るる事なき人也、いかにしても、
つらくせ悪く、口悪きものにて、人のにくしみもの也、小田原御陣の時、
秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、その罪に、耳鼻そかせ給ひし、…..」

2010年7月16日(金)
山上宗二記三回目。「唐物天目の追跡」 「天目」=「黒釉の焼き物」と見なす視点ではなく、侘び茶の湯において「天目とはどういうものであったか」を考える回。 すなわち「天目」とは「形」を指している。また『君台観左右帳記』東山殿(義政)時代(1511)では 曜変がトップだったが、77年後の『山上宗二記』の時代では
天目と言えば灰被を指すようになり、トップ下克上の様相。尚且つ天目がだんだんと時代遅れになりつつある。

天目は金属が元でそれを福建省で焼き物で作り始めた=建盞 盞は浅い器を指す。高台が非常に小さく安定しないので、元々天目台とセット。天目台は七つ揃って輸入されたので「七台」(数台)と呼ばれる。ただし現物は残っていない。

灰被は「はいかつぎ」と現代では呼ばれるがオリジナルは 「はいかづき」。灰を被ったような色合い、からの名前。(灰を被った、という意味ではない)

●玉潤:長らく瀬戸と思われていたが、唐物の灰被天目だということが少し前にはっきりした。
   唐物かどうかは高台部分を見ればわかる。唐物はきれいに隅が削られている。
●静嘉堂:曜変・国宝 茶溜まりが小さく茶人に伝わったものではない。
●ネコ合子@徳川美術館 曜変と言われているが本来は油滴、福建省のものではない。つまり建盞ではない。
●珠光天目@永青文庫:黄天目
●秋葉天目@MOA
●虹天目

それにしても例えば『君台観左右帳記』でトップクラスだった 曜変は万疋、今のお金で一億円。それが時代が変わるとただ同然に、ただ同然だったもの(天目=灰被)が高値に、と今も昔も、というよりは今よりもさらにダイナミックな価値観の変遷に 驚くばかり。
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転載ここまで。