宗教哲学講義2 (2016.10.13 Wed.)

悟りに向かう道は男女平等。しかしサンガでは男性のグループが上位。それはなぜかと言うと、まず釈迦は自分が救われるために修行をして悟りを開いた。その後、梵天に請われ、他の人々も助けようと立ち上がった。このときのターゲットが「自分と同じ行動ができる人」=「男性」。人気が出て女性もやって来るようになったが、最初は拒んでいた(「自分と同じ行動が都できる人」に当てはまらないから)。釈迦の育ての親マハーパジャパティーもやって来る。それでもなお女性を拒んでいた釈迦だったが、弟子のアナンが説得し、比丘尼サンガが誕生する。新しくできた女性の比丘尼サンガにはリーダーがいないので、半月に一度は比丘尼サンガが男性の比丘サンガに教えを受けるなど、幾つかのルールが決められ、「組織」としての差別ができた。

比丘尼サンガが成長し自立することができたら、組織としての差別は撤廃されたはず(先生曰く)。その前に釈迦がなくなってしまったので、差別が残った。日本は「律」がないので差別もない。

・無色界/肉体を持たないが心はある 非常に弱い煩悩/空中 神

・色界/初禅・二禅・三禅・四禅の四段階 肉体はある 欲望はない 煩悩はある/空中 神

・欲界/人間はここ/土があり歩けるところは全部欲界

煩悩は少しづつ消えていく(消す煩悩によって下記のようにステップアップ)
強い煩悩は消しやすい 弱い煩悩は消しにくい=極めて強い精神集中が必要
どの煩悩を消したかによって輪廻の場所が決まる
その段階のすべての欲望を消すとその場所には再び生まれず上のクラスに行く→不還(ノーリターン)

                      阿羅漢(「修道」によって上がる 色界・無色界が消える)
        
                 不還(「修道」によって上がる)

            一来(「修道」によって上がる)

      預流(ここから聖者「見道」によって上がる)

 凡夫

悟りを開き(涅槃)人間として生まれない、つまり人口ゼロを目指したのが釈迦の仏教(ただし仏教というインド語はない。「道」が本質を表す言葉)

業(カルマ)がいつからあるのかはわからない=無始
仏教では「天」は役職名
バラモン教では神は死なない。バラモン教を部分的に受け入れ新しいものを作った
有限と思われていたものを全て無限とした。つまり仏教も滅びる、しかし再生するという考え方

宗教哲学講義1 (2016.09.29 Fri.)

今年度後期からH大学のS先生の講義を聴講することになった。復習のため、内容をメモしていくことにする。あくまでも自分用の覚書。講義で読まれる書物は「具舎論」。すでにこの講義は12年行われているそうで、私は途中4章(「行動の因果関係」)部分から。後期から初めて受講する受講者向けに概略の説明あり。質問はいつでもOKルール。そのためもあって先生のお話は縦横無尽。とても面白い。しかし基礎知識の足りない私には理解が難しいことも。したがって、この覚書も勘違い等あるかもしれません。ここに書かれている覚え書きは、講義で取ったメモを元にまとめたもので、すべての文責は私にあることを(公開しているブログなので)念のため申し上げておきます。

◇具舎論:約1,500年前に世親によって書かれた哲学書。韻を踏んだ詩の形式で書かれた偈の後に詩を説明する長行が続く。アビダルマ(阿毘達磨/ジャンル名)のひとつが具舎論
 *佛滅900年に出世。説一切有部という宗派の根本聖典たる阿毘達磨大毘婆娑論の教理を組織してこれに批評を加えたもの(「倶舎論講義」 舟橋水哉著 より抜粋)

◇世親:ガンダーラ地方の生まれ。インドでの名前はヴァスバンドゥ
 *有部の学匠悟入の弟子。しかし有部の教義を確信すべき立たれたので所謂正統有部からみれば或いは異端者かも知れぬ(「倶舎論講義」 舟橋水哉著 より抜粋)
 *興福寺に木像あり

  六 足
   ↓
  発知論
   ↓
  婆娑論 
   ↓
  具舎論
   ↓
  順正理論

◇仏教の目的:この世に生まれなくなること。その確信を持つこと、のふたつ(涅槃)。そのためには業を作らない生活を送る。そのためにどんな業があるのかを知らなければならない。(仏教で考える業とは心が作る。心が伴わないと業ではない)

◇アビダルマの中心地は北部、今のガンダーラとカシミール。もうひとつはスリランカ。スリランカではアビダンマと呼ばれる。

◇哲学的に考える一派=「説一切有部」が現れ、婆娑論(具舎論の前に書かれた最大の哲学書。漢文に訳したのは玄奘三蔵)のころに経部(経量部)と毘婆娑師のグループに分裂。経部は「釈迦に戻れ」毘婆娑師は進歩的(?)。具舎論は、毘婆娑師のお膝元ガンダーラ出身の世親が、経部の地カシミールに留学して著したもの。一見毘婆娑師的に書かれているが、よくよく読んでみると毘婆娑師の立場を批判してい経部的に書かれている。

◇定業と不定業:AKBh 4-54(船橋訳p.271 国訳大蔵p.169)
 ・定業=結果が現れる時期が決まっている。以下の三つの間に結果が出る業
  1)生きている間
  2)輪廻しての次の一生の間
  3)三回目以降
 ・不定業=どこで結果が出るかわからない業

Q:「アビダルマ」とは釈迦の入滅後、教団は律の解釈をめぐっていくつかのグループに分裂して行き、それぞれの部派が独自の解釈で聖典を編纂し直し、本にしたもの、という解釈でいいのか? 

大島紬を学ぶ (2015.11.7 Sat.)

藤工房さんで行われた「大島紬の勉強会」。講師の加納さんがわかりやすく教えてくださり、多少は知っているつもりになっていた大島紬を、再認識、再発見。まことに有意義な土曜日の午後となりました。以下ご用意のレジメを参考に聞き書、覚え書き。

・大島紬は二度織る
 明治34年頃、それまで手で括っていた絣を機を使って括る「締機(しめばた)」が永江伊栄温氏によって開発された*。その後、締機で括られた反物の様に見える糸は車輪梅と泥田で染められた後、機で織られる。それが「大島は二度織る」と言われる所以。横糸が実際に使われる絹糸で縦糸は木綿糸(ガス糸)。
*最初に絣加工用締機を発明したのは、重井小坊という方。しかし重井小坊氏が若くして亡くなってしまい、その技術を受け継いだ永江伊栄温氏によって実用化された。

・大島は紬じゃないって本当?
 元々は手括りの真綿の紬糸を使って地機で織られていた「紬」であったが、現在は生糸を使い高機で織られているので「紬」ではない。(つまり「お召し」のように堂々とお茶会に着て行っていいのよね・笑)どうして生糸を使う様になったのか。締機の技法で紡ぎ糸を絣糸に使うと、はっきりした絣が出ない。そこで、紡ぎ糸ではなく、生糸の弱撚糸を使うようになった、ということらしい。

・絣について
 締機で糸を括る様になって細かい柄を織り出すことが可能になった。これは大島紬ならではの特徴。

・染めについて
 泥で染める、ということが前述の「締機で糸を括る」ということと並んで他には見られない大島紬の大きな特徴。まず車輪梅(別名「テーチ木」)を煮出した染料につける。約20回(約30回という記述もあり)つけた後、泥田に。これを4回繰り返す。「烏の濡れ羽色」と賞賛される色はこうやって生まれる。なお、泥を使って染めるためカビやすいそうだ。なるほど!そういえば先日しばらく来ていない泥染大島を引っ張り出したらカビていました。大泣きでしたが、言い換えればカビない大島は泥を使っていない可能性があるそうで、このカビてしまった大島は図らずもちゃんと泥を使っていたことが判明した、ということが言えます。悲しいのやら嬉しいのやら(苦笑)

・織りについて
 染め終わった糸をまずほぐす。このほぐす作業も実に大変そうである。それを機にかけて、ようやく織り作業。大島の縦糸は1240本、その縦糸総数に占める絣糸の密度の単位が「マルキ」。5マルキ、7マルキ、9マルキ、奄美ではいつ、なな、こん、などと呼ぶらしい。その後ろに付く「一元(ひともと)」と「カタス」。一元が絣糸たて2本に対してカタスは1本。前者の方が絣一粒一粒の形がきっちりとなる。表現はすこし雑ですが、後者はそれに比べてデコボコした感じ。その他に「割込」と呼ばれる、不規則な配列にしてより複雑な表現を実現させる技術もあるが、現在ではほとんど織られていないそうだ。

 繰り返しの総柄より、飛び柄の方が織りは難しい。さらに言えば、反物の半分に収まる柄行きにくらべ、柄の大きさが半分以上のものは余計に手間がかかる。なお、織るときに、絣を合わせるために針を使うので「針足」と呼ばれる光沢が現れる。上手な人ほど少ないが、この「針足」があることが、本物の証明でもあるらしい。

 5マルキ一元   絣糸たて2本 よこ2本 地糸3本
 7マルキ一元   絣糸たて2本 よこ2本 地糸2本
 9マルキ一元   絣糸たて2本 よこ2本 地糸1本

 7マルキカタス  絣糸たて1本 よこ2本 地糸3本
 9マルキカタス  絣糸たて1本 よこ2本 地糸2本

・証紙
 宮崎(鶴印)* 奄美(地球印) 鹿児島(旗印) の3種類 
 *奄美大島から都城地域に疎開した人たちが織り始めたので宮崎も産地のひとつ

私のファースト大島(カビさせてしまったのとは別の)は鹿児島の親戚が織ったものと母から聞いている。泥大島(正確には色泥大島)なので、奄美で染められた糸を使い鹿児島で織られたのではないか、と教えていただく。制作工程を詳しくお聞きし、何気なく着ていた着物がたいへんな手間をかけて作られた、ということがよく理解できた。自分でお金を払って誂えてものではないので、正直それほど深く考えたことがなかったけれど、今日の勉強会で有り難さが二倍にも三倍にも大きくなった。

まことによい機会を与えていただきありがとうございました!

乾山セミナー@法蔵寺 (2015.08.31 Mon.)

8月29日(土)30日(日)と行われた第11回法蔵寺「乾山セミナー」。法蔵寺が建つ場所は乾山が最初に窯を開いた場所(鳴滝泉谷時代)。そう言うご縁でお寺さんのご住職が「乾山セミナー」を始められて今年で11回目。私は8回目より参加している。去年は家族旅行と重なって伺えなかったので、その分も楽しみに足を運んだ。

今回は若手キュレターたちが登壇。初日は、柴崎大典氏(サントリー美術館学芸員)と徳留大輔氏(出光美術館学芸員)。二日目は梶山博史氏(兵庫陶芸美術館学芸員)。 オーディエンスも強者ぞろいで質疑応答も熱を帯びる。 初日の講演終了後に行われる懇親会も大いに愉快。二日目には毎回「オプション」が用意され、これまで和菓子制作体験、茶杓削りなど。今回は西村徳泉氏(陶芸家)浅見五祥(陶芸家)尾野善裕氏(奈良文化財研究所)による鼎談。

楽しみながら学ぶ、なんとも贅沢な企画。ご住職の西川さんと奥様、スタッフの皆様に、心から感謝を申し上げたい。

以下覚え書き。追々加筆予定:

「『琳派』と乾山 着想のマエストロのその後」柴崎大典氏(サントリー美術館学芸員)
*サントリー美術館では5月27日(水)~7月20日(月・祝)まで「着想のマエストロ 乾山見参!」が開催された。
 初代尾形乾山(1663~1743)から続く京都と江戸の系譜、乾山が江戸へ下向した後に京都の窯を託されたのは養子の猪八。江戸で受け継がれた「乾山」とは「猪八」だったのでは、という推論がテーマ。(後の人々が初代乾山と二代猪八をそもそも区別していたのか、という疑問などが呈された。)
 ・参考文献:
  『古画備考』朝岡興禎 嘉永三年(1850)起筆
  『商人買物独案内』天保二年(1831)版
  『すみだ川花やしき』佐原菊塢 文政三年(1820)
  『本朝世事談綺』菊岡沾凉編 享保十九年(1734)
  『洞房語園』(上)庄司道恕斎編 天文三年(1738)
  『茶人花押藪』素濤編 延享三年(1746)
  『装剣奇賞』稲葉通竜著  天明元年(1781)
  『新撰和漢書画一覧』天明六年(1786)
  『一話一言』大田南畝* 天明七〜八年(1787〜88)頃 *蜀山人(しよくさんじん)
  『文晁画談』文化八〜十一年(1811〜14)ごろ
  『諸方流略印譜』酒井抱一編 文化十年(1813)

「中国陶器と乾山焼」ー17世紀後半〜18世紀における中国磁器の流通・使用とその影響からー 徳留大輔氏(出光美術館学芸員)
  
「乾山焼に関する新知見」ー近年の進出作品を中心にー 梶山博史氏(兵庫陶芸美術館学芸員)

鼎談「京焼よもやま話」西村徳泉氏(陶芸家)×浅見五祥氏(陶芸家) コーディネーター・尾野善裕氏(奈良文化財研究所)
 現場の方のお話は研究者の方のご発表とはまた違った面白さ臨場感。京都における「共同窯」や「貸窯」についての実態もわかり興味深かった。

「チーター大セール」(2015.08.26 Wed.)

京都伊勢丹の美術館「えき」で『世界の絵本作家展Ⅳ 「ART×絵本」』を見る。とても面白かった。一冊、気に入った絵本を連れ帰る。高畠那生(たかばたけなお)さんの「チーター大セール」(発行/絵本館)。絵とストーリー、力の抜け具合がなんともツボ。妙にツボ。

高畠那生さんは1978年岐阜県生まれで、お父様の高畠純さんも絵本作家。