シンポジウム(2024.05.25 Sat.)

和紙の材料先日出先で偶然チラシを目にし、申し込んだシンポジウム(公益財団法人 全日本科学技術協会主催)。愛用している巻筆の藤野雲平氏のお名前もあり、背中をどんと押され。以下チラシより抜粋。会場は北山の稲盛記念会館。

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第11回 地域科学技術振興研究会
持続可能な和紙文化の振興に向けたシンポジウムin京都
「和紙を知り・和紙と生きる」-和紙文化の発展に向けて和紙事業の三方よしを考え –

Session1 講演/講師 (敬称略)
大林賢太郎 京都芸術大学 教授 歴史遺産学科・大学院芸術研究科 芸術専攻
横内 裕人 京都府立大学 教授 文学部歴史学科・史学専攻
林 伸次 黒谷和紙協同組合 理事長 手漉き和紙職人・京都伝統工芸大学校特任教授

Session2 演習/講師 (敬称略)
筆師 十五世 藤野雲平 攀桂堂当主 正倉院宝物特別調査・調査員
平野 正夫 元淡海水墨研究会主宰 元京都府特別技術指導員
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申し込んだ時点でSession2の演習はいっぱいだったので、Session1及び、Session2の藤野雲平さんのお話のところまで。専門家の方々のお話は大いに興味深かった。黒谷和紙協同組合の林伸次さんのお話は、手漉き和紙の当事者ならではの視点に立った問題定義もあり、一消費者として手漉き和紙が継続されるために何ができるのか、と考えるきっかけになった。まずは黒谷和紙の綾部にも足を運ぶ機会を作ろう。

《基層文化を映像にみる》(2024.03.24 Sun.)

“写真は本文とは関係ありません。新潟繋がりの一枚”

第一回上映会『越後奥三面ー山に生かされた日々』(145分 2023年デジタルリマスター版/16ミリ現版 1984年)に縁あって寄せていただいた。奥三面は新潟県の北部、山形県との県境にある朝日連峰の懐深くに位置。平家の落人伝説を持ち、また縄文遺跡も残る歴史の古い山村。その奥三面を、記録映画作家・映像民俗学者の姫田忠義率いる民族文化映像研究所が、1980年から4年間にわたり、人々の生活を四季を通じて追い、ダム建設による閉村(1985年秋)を前にした人々の想いをつづった記録だそうだ。大いに興味を惹かれ、出かけた。私が20歳から24歳までに撮影された記録映画なので、私の中では遠い遠い昔ではない。けれど、映像に映し出されている暮らしは、今となっては多くが失われているのではないだろうか。雪が根雪になった真冬の作業でも大人たちは手袋をしてないし、薄着、である。やることは実に多い。けれど皆、朗らかな笑顔で楽しそうである。子供たちもしかり。頭を使い、身体を使い、知恵を絞り、助け合って暮らす。神に祈り、己を律して自然と向き合い、収穫に感謝し、日々を送る。もちろん悲しみも苦しみも面倒な事柄もあるのだろうけれど、一人一人の中に「生きる」ということの、大きな柱が一本自然に備わっている、というようなことを感じた。よい意味での図太さ。頭でっかちではなく、心でっかちな人々。思い返せば、子供の頃には私の周りにも、そういう大人たちがいたように思う。“余暇”はすばらしいものを生み出す時間にもなるけれど、今の私たちには“余暇”が多すぎるようにも思う。そんなことも考えた。そしてこの映画は、私の生きる指針の一つになった。何かで足が止まったとき、何かを煩い心が塞いだとき、呪文のように「頭を使い身体を使い… 」と繰り返し、こんがらがった思考をリセットして、生活をシンプルに引き戻す。ずっとずっとこの映画を心に抱いて、暮らしていこう。

移転した村人たちが、移転先でも幸福であっただろうか。山から引き離されても、心でっかちを大いに発揮して幸せであったと思いたい。そんな思いで調べていたら新潟県のページ「旧三面集落の暮らしと移転」に移転先などの情報がありました。ほとんどの方が移転した先の住所には「三面」の文字も!

伯州綿(2024.03.14 Thu.)

公益社団法人京都染織文化協会セミナー『日本の綿を考える「伯州綿」の復興と発展 ─地域全体で取り組む和綿産業の復活─』へ。以前、ブラタモリ「境港・米子〜思わずゲゲゲ! “鳥取のしっぽ”は不思議だらけ!?〜」(2022年8月27日放送)の回で、木綿栽培(伯州綿)が紹介された。その「伯州綿」を詳しく学よい機会と楽しみに出かけた。講師は、境港市地域おこし協力隊の宮間博一さん。以下の項目を、図版も多くわかりやすい資料にそってご説明いただいた。

・伯州綿とは
・日本の綿の歴史
・境港市の綿栽培の経緯
・伯州綿とSDGs
・伯州綿製品について
・伯州綿の今後

「伯州綿とは」鳥取県西部に位置する旧伯耆の国で古来より栽培されていた木綿の名称。弓浜半島と呼ばれる地域で栽培されていたので現地では「浜綿」(はまわた)と呼ばれていたそうです。ちなみにその弓浜半島の美保湾は生本マグロの漁獲高、日本一とのこと。その浜綿を使用した絣の織物が弓浜絣。現在は国指定の伝統工芸品。
「伯州綿の歴史」ではブラタモリでもへぇと唸った「海に囲まれた半島で真水が湧く理由」にまたしても唸る。肝は「淡水レンズ」と呼ばれるもので“周囲を海に囲まれた島や半島で、海水が浸透した地層の上に比重の差で雨水が凸レンズに溜まる現象”によって真水が湧く。図版の一枚は水木しげる先生の曽祖父、武良惣平氏が営んでいた商家の絵。武良惣平氏は自ら交易船を所有し、繰綿や木綿などの商いを手広く営んでいたと伝えられているそうです。江戸後期から明治期には北前船で境港から近隣のたたら製鉄の品物とともに大阪方面への流通が盛んに行われており、明治14年の資料によると摂津、三河につぎ国内第三位の生産高を誇り、大正11年には天皇陛下への献上品となるなど華々しい地位を得ていたが、明治29年(1896年)輸入関税の撤廃により、安価な外国産綿の流入が始まり、綿畑はだんだんと減少し、現在に至る。
「境港市の綿栽培の経緯」では、さかなと鬼太郎のまち 境港市が新たな特産品を模索し、休耕地の有効利用、伯州綿文化の継承を柱に、平成20年度に「伯州綿栽培復活プロジェクト」が発足し、試験栽培が開始されたそうだ。種は、小規模ながら絶え間なく弓浜絣を続けていた人々から譲り受けた。継続はまさに力なり。そしてその試験栽培は概ね順調に推移し、21年度に栽培が本格化、23年度に栽培サポーター制度が出来、27年度に地域おこし協力隊制度を活用。「栽培サポーター制度」とは、種蒔きから収穫まで一年を通して伯州綿栽培を行うポランティア制度。収穫した綿は全量境港市の外郭団体・境港市農業公社が買い取り。栽培は農薬・化学肥料不使用。

洋綿と和綿の違い:
・洋綿 上向きに実をつける。実や種が大きく、繊維が長い
・和綿 下向きに実をつける。実や種が小さく、繊維が短いが繊維が太く弾力性に富む

「伯州綿とSDGs」では世界の綿栽培の常識である、大量の農薬散布や収穫効率を上げるために綿木を枯らす薬剤の散布、(綿木は)害虫がつきやすいため多量の殺虫剤を散布、などはせずに農薬、化学肥料不使用。そのことにより、土壌汚染や排水による海洋汚染の回避、生産者の健康被害の軽減、製品消費者の安心、を得る。三日で落ちる綿の花から酵母を抽出し、その酵母を利用してパンや中華まんを開発。綿は大量の種ができ、翌年巻く種を除いてもかなりの量が余るため、残った種を搾油し、綿実油と綿実油粕を作り、綿実油粕は綿木の肥料として使用。収穫後、残った綿木は通常廃棄されるが、チップ状に粉砕しタンブラーや和紙に利用。

「伯州綿製品について」境港市では新生児全員に伯州綿100%で編まれたおくるみ、100歳を迎えた方には膝掛けを進呈。おくるみを受け取った親子は次の年におくるみを受け取る親子のために種蒔き・収穫に参加。今後の課題として伯州綿の知名度アップと活用を挙げられておりましたが、すでにShinpei Nakazato、という伯州綿の生地でフルオーダーシャツを製作している方もいてビジネスとして十分にやっていけるのではないか、とのこと。講師ご自身も何か起業を考えていらっしゃるようでした。楽しみです。他にも株式会社ひまわり工房さんというところで、伯州綿の手拭い記事を使用した、子供用甚平やスタイなどが売られています。(以上当日配布された資料を参照しリライト)

これからも“鳥取県境港市地域おこし協力隊”の活動にも注目して伯州綿に思いを寄せましょう!

伯州綿さらに詳しくはこちらで。

私が持っている伯州綿アイテムはこちら

一休さん(2024.01.07 Sun.)

勉強会でお世話になっている芳澤勝弘先生(花園大学国際禅学研究所顧問)がNHKラジオ「宗教の時間」に登場。「きき手」は鈴木健次ディレクター。鈴木健二さんと言えばアナウンサー時代の『クイズ面白ゼミナール』などが懐かしく思い出される。久しぶりにお声を聴く。昔と変わらず温かみのあるお声(と書きましたが同姓同名のまったくの別人でした>鈴木健次ディレクター!! だいたいお名前の字が違う。お詫びして訂正申し上げます)。芳澤先生のお話にすばらしいタイミングでの合いの手。おかげで分かりやすく面白く番組を拝聴。ラジオの良さも再認識。

今こそ一休宗純の出番ではないのか! 求む、一休さん!!

番組はこちらから聞き逃し配信で視聴できます。

=宗教の時間 一休さんの実像に迫る

*2024年3月3日(日) 午前9:00配信終了

宮坂製糸所(2023.03.15 Wed.)

糸@宮坂製糸所「公益社団法人 京都染織文化協会」主催のセミナーで宮坂製糸所代表の髙橋耕一氏のお話を伺う。テーマは「日本の絹を考える ─製糸業の現状と宮坂製糸所の取り組みについて」異業種からの転身(先代社長の娘婿)ということもあるのでしょうが、とてもワイズで柔軟な考えをお持ちの方とお見受けしました。お話もとても分かりやすく有意義な時間を過ごす。

「甲斐絹」の産地で生まれ育ち、子供の頃は自転車に乗って友人たちと、桑の実を求めて遠征したものである(笑)身近にあった絹。されど身近すぎて特段の興味を持つことはなかった。ときは流れ、40歳を少しすぎた頃から日常的に着物を着るようになり、着物を着る機会を恒常的に持ちたいとお茶のお稽古も本格的に始め(それまでは活花の先生にご無理を申し上げてときどきお稽古をつけていただいていた)養蚕や絹織物にあらためて気持ちが向いた。何事も最初の頃は一所懸命。自分なりに学びもしましたが、いつしかフェードアウト。そんなときに再び熱を呼び起こしてくれたセミナーです。何度も諏訪へは出向いているのに、岡谷へは立ち寄ったことがない。次の機会こそ岡谷へ! 岡谷蚕糸博物館へ!! 温泉とセットで(笑)